瞳の中のひまわり

 叶わない恋に意味などあるのだろうか。

「私はやっぱり、男の人が好きかな」
 自分の中で何かが砕け散った。それはガラスのように粉々に割れて、あの耳をつんざくようなパリンという音まで聞こえてきそうだった。いや、私の耳には確かに聞こえてきたんだ。私の心が、私の理性を司るものが破壊された音が。
 彼女をめちゃくちゃにしてやりたい。自分でも不思議なくらいそう思った。その考えがスッと私の中に入り込んで来て、私を動かし始める。私のものにならないなら、今ここで彼女をめちゃくちゃにしてやりたいんだ。人気のないここで勇気を出したのはきっと正解だった。彼女を包み込むあの制服を破り捨てて、ここから逃げ出せないようにして、あの柔肌を蹂躪してしまいたい。それに、彼女の黒髪をついばみたかった。あの長くて美しい濡鴉を見るだけで、生唾が出る。
 彼女を抱きしめて、壊したがっている私の腕が、ふらふらと虚空を彷徨いながら、自然と彼女の方に向けられた。まるで、彼女を抱きしめることこそが私の存在意義であるかのように。
 左足が前に出る。それは私が指示を出した訳ではなかった。勝手に、私の制御を失った動きだった。これで彼女は一生手に入れられない。
 でも、このままでは一生彼女は私に振り向いてくれない。私のものにはできない。だから今、一時の夢を見てしまいたい。
 目線の先の彼女は私の奇行を見つめてもなお、その微笑みを絶やさない。何度確認しても目の前に居る彼女は、私の愛している人だった。
 私を見つめるあの瞳。いつ見ても美しい。この異常な精神の高ぶりの中でも、彼女の瞳はきれいだった。まるでガラス玉のような美しさがあって、それは子供の頃に口の中で転がしたことのあるビー玉のようだった。だから、私は時々彼女の瞳を口の中で転がしたり、瞳を舌で舐める妄想をしてしまう。あの子供の頃の口内の感触を思い出しながら、コロコロと。
 それもこれも、彼女の瞳が美しいのがいけないと思う。だって、目の中にひまわりが咲いているんだから。あの瞳の美しさにはきっと誰も敵いはしない。あの色彩の彩りは、人を狂わせていく。あの瞳に見初められた人は、彼女の愛を際限なく受け取れるのだろう。殺してやりたい。
 でも、愛なんてずっと続く訳が無いと私は思う。いずれはさめてしまう。でも、トラウマはきっと消えない。今やれば私は彼女の中で永遠に生き続けることができる。彼女にとって忘れられない人になれる。
「どうしたの、阿野あのさん」
 彼女の凛とした透き通る声に、私は瞬間的に震えを覚えた。出した腕と足をすぐさま引っ込めて、俯いた。私はいったい何を考えていた? 彼女を痛めつけるなんて、一時でも自分の物にしたいなんて……
 萎縮し過ぎて力いっぱい握りしめた手から、痛みと共に赤い鮮血が滲み出てきた。それは確かに私への罰であり、私から悪い感情を抜く為の儀式であった。俯いた床の先に私の純情が落ちて、染みた。脱色された純情と真っ赤に染まったキモチノワルイ感情が床へと染みていくことのみが、今の私を唯一救ってくれる行為だった。
「血が出てる」
 彼女が私の手を取り、固く閉ざした拳をやんわりとほどいて、手のひらで包み込んだ。目の前で、私の感情はあらわにされてしまっていた。このまま死んでしまいたかった。最後に触れたのが彼女になるのなら。
 彼女は私の手を自らの頬へと添えた。頬に私の色が、感情が塗られていく。
「やっぱり、血って温かいね」
 彼女が私を見て笑った。その微笑みが歪んでいるのは私の涙のせいなのか、それとも本当に歪んでいるのか、私には分かりっこなかったし、分かりたいとも思わなかった。
 彼女は一頻ひとしきり私の感情をもてあそぶと、私を押し倒した。
「ねえ、私のこと好きなんでしょ」
 彼女の言葉に、私は暴れだしたくなった。恥ずかしいというよりも、恐ろしい。この状況が明らかに終わりの始まりになることが私には理解できた。できてしまった。
 薔薇にはやはり棘があった。私は見つめているだけで満足していれば良かったのに。でも、触れた。いや、今触れようとしている。その棘に巻かれて、結局薔薇に触ることが出来ない末路を迎えようとしている。
「の、野崎のざきさん」
「ゆ、許してください」
 私は蚊の鳴くような声で訴えかけた。
「私は……」
 次の言葉を吐き出す前に、私の口は塞がれていた。その柔らかさは私が想像していたよりも、もっともっと弾力があって、私のキャパシティーを超えた。
 彼女の鼻息が、時々私にあたる。私の息もきっと彼女にあたっている。呼吸は生きる為に必要なことだからこんな時でも止めることはできなかった。
 目を開ける。でも、彼女のひまわりは姿を隠している。私はひまわりを探した。でも、そうしている間に、私の身体から、愛が吸い出されていく錯覚を覚えた。
 私は怖くなって目をつぶり、瞳を口の中で転がした。コロコロ、コロコロと。現実とは裏腹のその感触に、私は泣いた。


 一目惚れでした。

 野崎さんとは高校で出会った。野崎さんは綺麗な人だった。私はその姿を一目みた時、無性に欲しいと感じた。今までこのような感情を他人に思い描いたことなど無かったのに。私の心は何故か彼女を欲して止まなかった。
 その日、人生で初めて自分の苗字を恨んだ。あ行のせいで私の席は一番前だった。な行の野崎さんは後ろの席だったから、横顔を盗み見ることも、その後ろ姿を眺めることも叶わなかった。
 一回目はハズレだった。私は窓際の席で、野崎さんは廊下側の一番後ろの席だった。
 二回目は当たりと言えた。私の後ろの席が野崎さんだったから。他愛のない話や、プリントを配る時に見ることが出来るその顔。
「ありがと」
 その笑顔とその言葉で私は幸福になれた。そうやって野崎さんと話していくうちに、最初の欲しいという気持ちは薄れていった。ただ、話しているだけで満足できたから。
 三回目、ハズレ。近くで聞けていたあの笑い声が遠くから聞こえてくる。あの透き通った綺麗な声だった。その笑い声は何も変わってない。なのに、その声を聞くのが嫌で嫌で堪らなくなってしまっている自分がいる。あの気持ちは薄れてなどいなかった。
 より濃くなり、より深くなっているように、そう感じた。
 二年生となった春、私は昔の悪い癖を再発させてしまった。あれほど、恥ずかしい思いをしたというのに……私はまだ懲りていなかったらしい。
 その癖というのは口の中でビー玉を転がすというものだ。私は幼い頃、何故かその行為を繰り返していた。それがすっかり癖になってしまい、私はその行為から抜け出すことができずにいた。ビー玉の持つ美しさと感触が、いつまでも私の心を掴んで離さなかったから。

「唯奈《ゆいな》ちゃん、なにしてんの?」
「いいでしょ、口の中見せてくれるくらい」

 あの時から私は自分を律することができる人間になれた筈だった。でも、そういうメッキは簡単に剥がれ落ちてしまう。私はそういう人間だった。いくら取り繕ったところで、意味なんてなかった。
 流石にこの年になって学校という他人との共同空間の中、口の中でビー玉を転がして過ごすのは私としても後ろめたさがあった。だから、近頃の私は飴玉を口の中で転がしている。もしも、これがあのビー玉だったら。そうやって妄想と現実の甘ったるさを味わっていると、すぐに飴玉は私の中に溶け込んでしまう。
 そして口の中がフヤケて、甘さが舌に残る。それがなんだか嫌で、飴を舐め終えた後は決まって口をすすいだ。
 本当に、本当に耐えきれなくなった時に、私は口の中にビー玉を含んでしまうことがあった。学校という日常的空間の中で、ビー玉を口の中で転がすという行為は私を否応なく興奮させた。やってはいけないことを隠れて行う背徳感の塊。日常の中に簡単に持ち込むことができる非日常。それが今の私にとってのビー玉だった。

「阿野さん、なんの飴舐めてるの」
 夕焼けが窓から教室を覗き込んでいる。目の前には野崎さんがいた。驚きのあまり、ビー玉を飲み込んでしまうところだった。感触を味わうために目をつぶっていたから気がつかなかった。そもそも、野崎さんとはクラスが分かれてしまっていたから、野崎さんがいること自体が不思議だった。
「前はみかんとかそんな味の舐めてたよね?」
 野崎さんが私との会話を覚えていたことに一瞬浮かれてしまったが、口の中の感触がすぐに私を現実へと引き戻した。さっきまでと違い、口の中のビー玉はただのビー玉でしかなかったから。
 私は首を横に振る。今の私にできることといえばそれくらいしかなかった。もしくは、飲み込んでしまうぐらいしかない。それは避けたかった。何故ならそのビー玉は私のお気に入りで、中にひまわりみたいな装飾があるものだったから。子供の頃から捨てられずにいる、私の根底に潜むもの。
「ねぇ、口の中見せてよ」
 野崎さんが笑いながら、私に顔を寄せてくる。ひまわりが好奇心と悪戯心に満ち溢れて咲いていた。瞬間、彼女の瞳とビー玉が私の頭の中で混ざり合い、合致した。言い訳もできないような恐ろしい考えだった。気づかれる前に、失望される前にどうにかしなければ。
「はじゅかしいから、いやれふ」
 咄嗟に出た言葉は、舌に隠したビー玉に邪魔されて上手く口から出すことができなかった。自分が発したそのたどたどしい発音に顔がみるみるうちに熱くなる。その幼稚さが、過去の子供の時の記憶と重なった。
「やっぱり可愛いね、阿野さんは」
 私は慌ててバックに入れていた梨味の飴を野崎さんに差し出した。どうにか野崎さんの気を逸らせないかと思ったから。
「くれるの? なんかごめん。そういうつもりじゃなかったのに」
 野崎さんは寂しそうに「ありがとう」と言った。そして包装を割いて、飴を口の中に放り込んだ。
「この味、結構好きかも」
 彼女の笑顔の眩しさに、私は自分の幼稚さを恥じた。
「じゃ、またね」そう言って野崎さんは教室から出て行った。私は野崎さんが教室を出て行った後も、しばらく教室の椅子に座り込んでいた。野崎さんは気分を害していないだろうか、私がビー玉を口の中に入れていたことがバレていないだろうかといった、そういった不安に押しつぶされてしまっていたから。私がその感情とどうにか折り合いをつけて家に帰ることができた頃には、既に外は暗くなってしまっていた。
 家の鍵を開けて、いつものように自分の部屋へ着替えと荷物を置きに行く。いつもならそのまま夕飯の支度をするけれど、私はその前にしなければならないことがあった。
 部屋の棚の真ん中に置いてある人形を見つめる。しかし、彼女が私を見返すことはない、その瞳は閉じられてしまっているから。彼女は子供の頃に私が作ったお人形で、瞳には私が今握り締めているお気に入りのビー玉がはめられていた。幼い頃に、友達にビー玉を口の中で転がしているのが見つかったときにはめこんだのだ。私がもう二度と、そういった恥ずかしい行為をしないためにと……
 実を言うなら、お気に入りのビー玉をどうしても捨てることができなかった私は人形の瞳にそのビー玉を使うことで、捨てない理由を作り出したのだ。捨ててしまった方が自分の為になるのに。
「目が見えないと、嫌だよね」
 私はまた捨てない理由を見つけている。私はそんな自分が、嫌いだ。

 卒業式。私は喧騒から離れた場所にいた。人目のつかない校舎の裏側で、ぼんやりと立ち尽くす。花占いやコイントスで決めた方が絶対にマシだと言い切れた。
 ラムネを飲み干せたら、野崎さんに告白できる。自分でもあまりにも馬鹿らしい行為だと思った。こんなことで野崎さんに告白するか決めるなんて失礼だとさえ思う。
 子供の頃からずっと炭酸の刺激が苦手だった。それを克服して飲み干せたら、きっと何かが変わる。自分の殻を破る。身近にあった障害を乗り越えて自分に自信をつけるみたいな、これはそういった儀式のようなものだった。
 私は覚悟を決めて、ラムネを飲み込む。いつもと変わらないシュワシュワした炭酸の刺激が私の喉と舌を痛めつける。私はその刺激に涙目になっていく。もう飲み込みたくない私がラムネを口の中にせき止めてしまうせいで、口の中でどんどんラムネが膨張していく。私は何も変われていない。あんなに練習したのに。
 結局私は耐え切ることができなくなってふきだした。こんな地獄の様な体験をしたのにまだ半分も減っていなかった。おまけに、ふきだした時にラムネが手にかかってしまい、ベタベタしている。
「嫌だ。嘘だ」
 私はコンクリートの校舎にラムネを思いっ切り叩きつけた。粉々になった容器から解放されたラムネが一気に飛び散り、ビー玉が飛び出す。壁から炭酸の破裂する音が小さく聞こえた。
 簡単なことだったんだ。ラムネを飲み干すことなんて。私は指先で涙を払った。その液体を舐め取る。しょっぱい。ベタついた肌を猫みたいに舐める。ラムネの残滓ざんしを感じた。なめる。あまい、しょっぱい、しょっぱい。
 感情はいつまでも溢れてくる。それが怖かった。深呼吸をして感情を殺そうとした。その最中に、スマホがポケットの中で振動した。
『抜け出したから、もうちょっとしたら着くよ』
 もう、約束の時間だった。教室に行かないと。
 私は咄嗟にビー玉とラムネの容器の破片を、散らばった破片の中でもとびっきり鋭利な破片を選んで拾い上げ、野崎さんと約束した場所へと向かった。


 息苦しい。

「やっぱり、阿野さんは甘い味がするね」
 野崎さんは私から離れると、そんなことを口にした。私は目をつぶったまま、野崎さんの言葉を聞いていた。まだ、何もかも受け入れることができていなかったから。どうして、野崎さんは私にキスなんてしたの? 少しでもこの状況を処理したい。その為に視覚は邪魔でしかなかった。脳と心のリソースが追いつかなくなってしまうから。
「いつも飴舐めてたし、来る前にも舐めたりしてたんじゃない?」
 私はまだ黙っていた。口をつぐんでいても、目を必死につぶっていても、今を無かったことになんて出来ないのに。やはり、怖さが打ち勝ってしまう。このまま、離れて欲しい。
 ジッパーを開ける音が聞こえてきた。野崎さんが何かをしている。私はようやく現実を受け入れる決心をした。
 視界に最初に入ってきたのは、頬に血をベッタリとつけた野崎さんの横顔だった。私は声を上げそうになって、手で口を抑えた。血が付いた姿に驚き、その血を付けたのが私自身の愚かさだったことにすぐに気がついてしまったから。
 口の中に何か液体が入ってくる。鉄っぽい味がした。手を見てみると、さっきガラスを握った所から血が出ていた。
「ちょっと待っててね。今、準備してるから」
 呆然としている私をよそに、野崎さんは自分のリュックからペットボトルの水を出して自分のハンカチを濡らした。その濡らしたハンカチで私の手を少し拭くと、そのまま出血している手の平を縛った。私は先ほどまで感じていなかった痛みを感じ始めていて、小さな声をあげてしまった。
「ごめん、痛かった?」
 野崎さんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。私は確かに心臓の鼓動と共にジンジンとした痛みを感じていた。でも、私の痛みよりも野崎さんの顔に付いてしまった血を拭き取ることの方が私にとって重要なことだった。
「顔に血が付いてて、私のハンカチを使っていいから」
 私は自分のハンカチを渡すために立ち上がった。野崎さんは自分のバックから既にタオルを出していて、自分の顔を拭いていた。野崎さんと目が合う。
「あ、大丈夫だよ。タオルあるから」
 私のか細い声など野崎さんに届いていなかった。私のちっぽけな勇気はなんの価値もなく、ただの欺瞞ぎまんとも言えた。私はまた、俯くことしかしなかった。
 目線の先に野崎さんの足が見える。その足は目に見えて小刻みに震えていた。私はハッとして野崎さんの顔を見つめた。
「どうしたの?」
 野崎さんのいつもの透き通った声がうわずって聞こえた。よくみればタオルを持つ手も震えている。私は自分だけが他人を欺《あざむ》こうとしているとばかり思っていた。私が失態に対して黙り込んで、自分を守ろうとするように、野崎さんが恐怖に対してあえて気丈に振る舞っていると何故考えなかったのだろう。
「私のせいで」
 その声は自分が思っていたよりも大きな音となり、二人きりの教室に響いた。野崎さんの身体が一瞬、大きく震える。きっと、驚かせてしまった。でも、どうしても伝えたかった。安心して欲しかった。
「私のせいで野崎さんを怖がらせてしまって、ごめんなさい。ガラスの破片なんて持っていたら、どれだけ恐ろしいかなんて」
 考えなかった。私はそう言うつもりだった。でも、自分の欲望のために凶器が必要だと考えたから、野崎さんを脅すのに有効だと考えたから私はあの破片を持ってきた。私は結局、物事を自分の目線からしか考えられない人間なんだ。
「自分が好きなものを手に入れたい。それはきっと誰しもが思うことなんじゃないかな? 私、ここに告白されにきたつもり。さっきはちょっと意地悪しちゃったけど」
 野崎さんが私を見つめながらそう言った。はにかみながら照れ臭そうに、それでも真剣に私を見つめている。
「本当はすぐに、答えてあげるつもりだった。好きですとか、愛してますとか、一緒に居たいですって言われたらね。でもさ、阿野さんが男の人と女の人、どっちが好きですか? なんて聞いてくるから。ちょっとかちんと来ちゃった」
 私は野崎さんの言葉を黙って聞いていた。私は確かに好意があることを伝えていなかった。私を受け入れてもらえるのか不安で、それを初めに確かめようとしていた。
「阿野さんがガラスの破片を持って私に近づいてきた時、正直怖かったよ。でも、阿野さん泣いてたから。私が受け入れてあげれば大丈夫かなって、勇気だしてみた。なんかやばい人にみたいになっちゃったけどね」
 野崎さんは流石に血を付けたのはやり過ぎたなんて笑っている。本当なら逃げだしたい位怖かった筈なのに。
「阿野さんは私になんで告白しようと思ったの」
 野崎さんが私に問いかけた。私は自分の心の中を整理する。私が野崎さんに告白した理由は、その瞳の美しさとか、話していて楽しかったからとかそういう色々な理由があって……でも、一番は私と一緒に居て欲しかったから。
「野崎さんと一緒に居たかったからです。一緒に居て欲しいんです……でも、怖いんです。私は怖がりで寂しがり屋だから、野崎さんが隣に居てくれることさえも怖いんです。野崎さんが私に愛想を尽かして去って行くことを想像してしまう。その温もりよりも、その温もりが私の手から失われるのが怖いんです」
 そう思っているのに、私は野崎さんをここに呼んでしまった。感情を抑えることができなくて、私はまた泣いてしまっていた。
「私は楽しみだな」
 野崎さんが泣いている私を見かねたのか、そう言った。
「阿野さんがどんな人なのか、きっと私は全然知らないんだろうし」
 野崎さんは優しい人なんだ。私と違って相手のことを考えることができる人なんだ。私の独りよがりの愛とは違う。もう、終わりにしよう。もう、野崎さんに迷惑をかけることはやめるんだ。
「やっぱり、やめましょう。こんな私は野崎さんに相応しくない。こんな私と付き合おうと思わないで。野崎さんにはもっと良い人が」
 野崎さんが私を抱き締める。野崎さんの匂いが私を包み込む。
「阿野さんはやっぱり可愛いよ。私に相応しいかなんて、阿野さんが決めなくていいんだから。これから確かめてけばいいよ」
 私はその唐突な抱擁《ほうよう》に少しパニックを起こしている。嬉しいのに、怖い。離れなきゃいけないのに、離れたくない。私の中の感情は滅茶苦茶だった。
「こ、怖いんです。愛が怖いんです。愛は色褪せてしまう、いずれ壊れてしまうんですよ。幸福な記憶が確かにあった筈なのに、消えちゃって、辛い記憶だけが残るんです」
「もしかしたら、それって阿野さんだけが思ってるかもよ」
 野崎さんが寂しそうに笑う。私はそう考えて生きてきた。人間というものはそういう風にできているのだと思う。
 だって、楽しい気持ちはフラッシュバックしたりしない。いつでも私の記憶の底から甦ってくるのは、あの時の苦しい記憶や恥ずかしい記憶だったから。生き物というのはそうやって、生き長らえてきたのだと思う。痛い思いを忘れて、何度も何度も火に飛び込んで火傷をしたり、毒で体調を崩すような生き物がいれば長生きなど出来ないだろうから。
「たぶん、阿野さんが何度も思い出してしまったんじゃない? そういう、今まで感じた気持ちみたいなのを引きずって生きてきたんだと思う。そうやって何度も思い出すうちに、阿野さんに植え付けられちゃったんじゃないかな。辛い記憶が、悲しい気持ちが」
 私の想いを聞いて、野崎さんがそう言った。
「だから、忘れられないくらい楽しい記憶をこれからふたりで作っていけばいいんじゃない! まあ、もしも私達の相性が悪かったら、その時は別れちゃえばいいんだし」
「えっ」
「合わないなら別れちゃったほうがお互いの為になるでしょ、当たり前だよ。人間関係なんてそんなもんじゃないの?」
 そんな突き離す様な事を言うのに、野崎さんは私を更にきつく抱き締める。
「だからって、人を愛す努力を怠ったりなんて私はしないからね。人を愛すのだって努力が必要だし、人に愛されるのにも努力って必要なんだから。我慢しあうのは長続きしないでしょ? お互いにその我慢が無いように話し合ったり、譲り合ったりする必要があるってことだよ」
 野崎さんはそう私の耳元に話しかけてくれた。そして、抱き締める力を緩めて私と向き合った。
「とりあえず、保健室行こっか」
 野崎さんが、ハンカチで縛っていない手を取る。
「あ、告白は受け付けたからね、取り消すとかないよ。だから、私達は恋人同士ってことでよろしくね。そうなると……初めてのデートは保健室ってことになるのかな」
 野崎さんが笑う。彼女のひまわりがそこに、確かに咲き誇っていた。私はやはり俯いてしまう。それでも、彼女の手だけはしっかりと握り返す。今の私には、これくらいしかできないから。それでも、今できることをしたかった。
 そうして、私達は喧騒の聞こえる方へと歩き出した。


 101号室。

「ただいまー」
「おかえりなさい」
「今日も嫌になるくらい働いてきたよ……仕事の押し付け合いなんて勘弁して欲しいよね」
「仕事、大変なの?」
「いや、大変だけど給料貰えるし、割と休みもあるからねぇ。文句ばっかり言っても始まらないよ。とりあえず休憩ってことで」
「……ねぇ、教室って狭い世界だったよね。井の中の蛙、大海を知らずってやつよ」
「いつの話してるの? それに、蛙は海に出れば浸透圧の影響で死んでしまうよ」
「もう、ちょっとした例えだよ、例え。……大海に出たけど、何とか生きていけるね。生きていけちゃうんだよなぁ」
「人は、そういう生き物だと思うよ」
「ま、そうね。冬眠して冬を越すことだって出来るし」
「それは蛙」
「お、唯奈ナイスツッコミ」
「……だから、心細い私は遙華《はるか》と大海へと赴いた」
「あの、されど空の青さを知るみたいな、その……恥ずかしいから、なんか言ってよ……や、急に抱きつかないで」
「だって、心細いんでしょ? ほらほら、温《ぬく》いでしょ」
「知ってるよ、痛いくらいにね」

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